なくしたもの


ついに財布を紛失しました。10月にここで書いたように、今年に入ってからスマホを一回、財布を一回なくし、幸いにも両方見つかるということがありました。そして11月。三度目の正直とばかり、再び財布を無くしました。今度はみつからないでしょう。どこでどうなくしかたが解らないからです。

さて、スマホ・財布という大事なものを連続して無くしたとき、それをどう捉えるか。もっと大事なものをなくすかもしれないので、注意すべしという天からのメッセージだとしたら……、と書きましたが、その時は再び財布をなくすとは思っていませんでした、トホホ。

そして今回財布をなくして気づいたのは、本当に無くしたものは他にあるということです。

一つは信用。この三度目の正直でもともと薄かった妻からの信用は砕けました、こいつはダメだと。多分少なからず妻以外の人にもそういう印象は与えますよね。まあ、それをあえてここで書いているわけですが。

そしてすでに失っていたものは、注意力とか確認する力とか、そういったものです。この財布事件を少し年上の先輩に話したら、とにかく「気をつけた方がいいぞ」というアドバイス。これからどんどん、そうなっていく。年なんだから、という意味です。つまり失っていたものは若さであると。

そして直接財布とは関係しませんが、時期を同じくして失いそうな危機にあるものがあります。すでにある程度失われてしまったかもしれない。現在進行形です。

こうして思うのは、「大切なもの」とはまさに目に見えなくて、普段はあたりまえに思えて、なくしてみないと解らないものなんだと。そして一度失ってしまうと、取り戻すが難しい。もしくは取り戻せた様に見えても、実は変質してしまっていて、全く同じにはならない。

そんなことはあらゆるところで言われてますよね。まったく今更なんですが、忘れてしまうんですよね。愚かです。

でも誰でも年は取るし衰えもする。気持ちも状況も変わる。つねに自分が同じで有り続けることができないのも事実。だとすると本当に大切な物を保ち続けるにも自分は変化していかなければいけない、何かが衰えたら別の何かでそれを越えていく。それを成長というのでしょうか。

つねに、成長しつづけないと、大切なことを保てない。変化しないと失ってしまう。ということは成長を意識しなくなったとき、その人はすでに死んでいるということか。厳しいなぁ、人生。でもこれはある意味正しい気がします。まだ自分は成長への意欲がある、そう信じないと人生はつらいものね。

ちなみに物としての財布ですが「もうパンツは履はかない」といった勝新太郎的言い訳で、もう持ちたくないといったら、妻から一喝。ちゃんと買って責任もってなくさないで使うべしとのこと。ごもっともなので買いに行きました。で、なくした財布と同じものものなぁと思いつつ売り場にいってみたら、自分の記憶より高かった。自分、こんな高い財布をなくしたのねと再認識して再びがっくり。

結局違うタイプの物を買いましたが「本当に大切」なものはこう簡単には行かないよねぇ。しかしここはしっかり踏ん張るしかないな。

なにが本当に大切なのか、それを常に忘れずにいきたいと思います。

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なくしたもの への2件のコメント

  1. くに より:

    なくした分学びましょう、ということなんですね。
    わたしもなくし始めて15年
    いや21年か。
    学びましょう。どんどん。

  2. けんさん! より:

    ほー、ドンマイですね。
     私が高校二年生の時、通学途中で自転車の後ろのかごの底が抜け、
    学生カバンをなくしてしまいました。
     まず交番に届けた後、職員室に担任の先生に
    「せんせー、学生の一番大切なものをなくしました・・・」と小さな声で伝えると、
    担任はいつものゆっくりしたズウズウ弁で
    「なんだ大村。まごころか?」と。
     じっさい、その当時はなくすほどの
    まごころは持ち合わせていませんでしたが、
    今は年に三回くらい無くしてカカァにしかられてんだど!
                         ・・・どんどはれ。
    ! 

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